「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より
この地は、奈良時代後期、国分寺が建立されたことにより繁栄したが、律令制の崩壊に伴い国分寺や関連集落は衰退した。古代末期から中世にかけての支配関係は、はっきりしないところがあるものの国衙領の残存に加えて荘園化が進んだものと考えられる。鎌倉~南北朝時代には足利氏の支配下にあったが、戦国時代には市原城(芦野氏)、能満城(城主不明)なども築かれており、在地豪族の支配下にあったと考えられる。近世においては、郡本と加茂の一部が寛政~幕府まで下総高岡藩領、惣社が文政8年から貝渕藩領と旗本小栗氏の相給であったほかは、ほとんど幕末領と旗本知行として明治維新を迎えた。
明治以降の所管は、知県事柴山文平.菊間藩主水野忠敬.菊間県.木更津県.千葉県等の変遷を辿った。
明治11年郡区町村編制法施行の際、郡本、藤井、山田橋、門前、市原の5村が村連合を組成し能満村は山木村と共に、加茂村、根田村、惣社村、西広村は4村をもって、また西野谷村は五所金杉村他2村と共に、それぞれ村連合を組成した。
同17年戸長役場所轄区域変更の際、郡本、藤井、山田橋、能満、市原、門前、根田、加茂、惣杜が村上村と共に、西広村は海士有木村外6村と共に、また西野谷村は八幡宿外3村と共に同一戸長役場の所轄区域に属した。
明治22年の町村制実施にあたっては、11カ村(能満、山田橋、西野谷、藤井、郡本、門前、市原、惣社、根田、加茂、西広)が市原村として合併し、町役場を郡本の正光院に設けた。市原村の名称由来は、合併諸村が古来市原郡に属し、更に旧村名中に市原の名称があることによるものである。
その後、昭和28年頃より五井町、市原町への分村合併が論議され始め、県の仲介を受けながら数十回にわたる協議を経て、昭和31年に半世紀にわたる市原村が終了した。この分村合併も円満解決とは言い難く、後日に問題の尾を残した。
「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より