「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より
この地区の地名のうち、文献上に登場する最古のものは、白鳳年間(680年代)に天武天皇が八幡神社を造営されたと云う磯部の里、すなわち今の磯ケ谷であり、後の検地の頃(1500年後期)に松崎と共に磯ケ谷郷と称した。その他は山田郷に属していた。
明治維新前はほとんどが諸旗本の支配下であった。
明治元年より同8年に至るまでのこの地の沿革は、磯ケ谷、山田、松崎のほかは定かではない。松崎は、明治元年4月、上総飯野藩主保科弾正室へ御預げとなり、同年7月、宮谷県の管理に移される。また、磯ケ谷、山田は、明治元年7月、房総知県事柴山文平の管理に属し、同年11月松崎と共に鶴舞藩主丼上正直の支配となる。
明治4年の廃藩置県に伴い、鶴舞県、同年11月に木更津県の管理となる。同6年に千葉県の統轄となる。明治11年の郡区町村編制法により、磯ケ谷村は松崎、櫃狭と、土宇村は二日市場、山田と、大桶村は川在、新巻とそれぞれ村連合を組成し、千葉布原郡役所に属した。同22年の布町村制実施に伴い、これら9村から成る養老村が成立し、役場を松崎に置いた。養老の地名は、関係諸村がいずれも養老川に沿っていたため古くから養老柵と称したところからきている。
昭和30年には、町村合併促進法により、養老村、市西村、海上村が合併し、三村和合の願い をこめて三和町と名付けた。
「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より