「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より

八幡は、古く江田郷の1部として浜野と同郷で石塚村と称していた。その後孝徳天皇の時代(640年代)市原郷に国府が置かれ、一国一社の国府八幡宮が創設された。以来国府の地の繁栄と共に、神社を中心に発展したことから、この地域を”八幡郷”と称するようになった。
 戦国時代には、上総と下総を分ける村田川河口に位置していたことから、しはしば権力争いの舞台となり、千葉一族の八幡合戦場跡や、当時の戦死者を埋葬したという胴埋塚が残っている。
 江戸時代に入ると八幡.五所.山木に分割され、旗本領、寺社領などとして支配され、明治維新を迎えた。
 五所はかって”八幡御所”と呼ばれていた時代があった。これは金杉橋の付近に足利義明の御所があったことに起因するものであるといわれている。また”五所金杉村”と称していた時代もあった。この金杉とは天明年間(1780年代)に江戸金杉村の住人か五所地先の海岸に塩田を開き、この地を”金杉新田”と名付けたことに由来する。
 本地域は、明治元年11月菊間藩に編入、水野忠敬の支配地となった。明治4年廃藩置県により宮谷県となり、更に同年ll月府県廃合が実施され木更津県に統合され、明治6年に千葉県となった。
この間、明治5年には八幡郵便局が設置され、明治8年には市原警察署の前身である千葉県取締所が置かれ所轄区域は、市原.五井.姉崎.市津.三和まで及んでいた。明治9年には区制の実施により上総国市原郡(環市原市)が大区となり大区扱所が置かれた。
同11年、郡制施行によって市原郡と称する地方自治体が生れ、郡役所が八幡に開庁するなど、常に市原の中心地として位置づけられていた。
 同22年、八幡、五所、山木が合併し八幡町と称し町役場を八幡に設置した。
 昭和30年八幡町と菊問村は、相隣接して人情、風俗、習慣が共通し、相互依存の関係が密接であったことから合併し、翌年市原村の一部(市原、門前、郡本、西野谷、藤井、山田橋、能満)を編入して”市原町”となった。

「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より