「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より
鶴舞台地は縄文遺跡で占められており、先住民にとっては生活しやすい所であったらしい。富士台から江子田にかげては前方後円墳をふくむ一大古墳地帯であり、古墳時代、上海上国造の支配下にありながら相当の勢力をもった豪族が存在していたと推定される。
鎌蒼時代に和田太郎正治がこの地で勢力を振るい、付近には大きな沼や池があったことから、この地を池の和田としたという地名伝説がある。
その後、大永元年(1521年)8月1日に池和田城の城主が里見家の重臣多賀信繁と左り、以来里見家と北条家の合戦が続いたが、永録7年(1564年)に北条氏政に攻められ、城主多賀高明は自ら城に火を放って白刃してしまった。
この間、多賀氏は1521年に石川に竜渓寺の創建や林祥寺、長泉寺など曹洞宗の布教に努めた。
現在の中心地である鶴舞は、当初石川の字に属し、桐木台と称する五穀そ菜の栽培地であったが、明治元年菊間藩水野氏の所領となり、続いて同年浜松城主井土正直が移封され、北子来に藩邸を設げたことから、にわかに市井となった。鶴舞の名称については、地形が鶴の舞う形に似ていたからという説や鶴の舞う慶祥の地にしようということで鶴舞とした説と、内田村の谷間に小字鶴舞谷という名称があるので鶴舞としたという説などがある。
鶴舞城は、築城半ばにして工事をやめたものの、外濠や城の用材で造ったと言われる鶴舞神社などが残っている。
明治維新により武士の多くは職を失い、教師、巡査、郡役所の書記等に変っていったことからも、当時鶴舞藩士が多く起居していた鶴舞の文化や産業における優位性が頷ける。俗に佐倉巡査に鶴舞教師と言われるように、鶴舞藩の官員は教師になったものが多いようである。
明治6年には郡内初の警察、7年には八幡、姉崎、牛久に続いて郵便局、22年に郡内初の銀行、会社、製糸工場が設置された。
明治24年の町制施行時には、この鶴舞の台地に約200の商店を有し、鶴舞銀行と生命保険会社4社の代理店が立地し、米穀の取引きなど八幡町と交流が盛んであった。
明治4年7月丼上氏は鶴舞県知事となったが、11月には鶴舞県が廃止され、木更津県となり6年に千葉県に属すところとなる。
明治11年郡区町村編制法施行に際し、鶴舞、田尾の2村と、矢田、下矢田、池和田、山小川の 4村は各々別の村連合を組成したが、風22年町村制施行にあたり、鶴舞、池和田、矢田、下矢田、田尾、山小川の6ケ村で鶴舞村と称し、同24年八幡、五井に続いて町となり、その後昭和29年には、南総町となった。
「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より