「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より
ニニギノミコト・タマヨリヒメノミコト・ワケイカヅチノミコトを祭神とする高滝神社は、三代実録によれば貞観10年(868年)に従五位下を授げられており、現在でも祭礼などを通じて地城のシンボルである。
ニニギノミコトは日と稲穂を意味する神であることから農耕に必要な水(或は滝)の神と雨をもたらす雷の神(ワケイガヅチノミコト)を祭り、ワケイガヅチの母タマヨリヒメノミコトと合祀し五穀の豊醸を祈ったものであろう。
平安時代末期(980年頃)には天台宗壇郡流派が音信山(山口)に霊場を構え、鎌倉時代にかげて光明寺などの寺院が建ち並び隆盛したと伝えられる。
鎌倉時代には熊野信仰が盛んになり当地にもその影響が見られ、同時代の仏教説話「沙石集」は高滝の地頭が娘を連れて熊野詣でをしたことが記されている。
戦国時代末期の天正16-18年(1588-1590年)には里見氏領、それ以前は真里谷武田氏か里見氏のいずれかの勢力下にあったものと思われる。
江戸時代初めの幕府領となった村に山ロ、加茂があり慶長7年(1602年)から外部田・山口・駒込・大作・久保の各村を除いては久留里藩土屋氏の封土となったが、転封後は幕府領、旗本知行に分割された。なお天和3年(1683年)、板倉重宣が高構周辺等2万石を領し高滝藩を立藩している。しかし元録12年(1699年)子の重高のとき備中庭瀬に移封しているのでわずか16年間であった。
明治元年には一時宮谷県所轄となったものの、同年12月鶴舞藩井上氏の封土となった。明治4年鶴舞県が廃止され、木更津県所轄となり、同6年千棄県所轄となった。同年、区制のもと、旧幸田郷(久保、外部田、駒込、山ロ)は第5大区5小区に、旧高滝郷は第5大区6小区に編入された。不入は古敷谷と共に第5大区13小区であった。
明治8年北崎村と小佐貫村が合併して養老村となり明治9年宮原村ど加茂村が合併して高滝村と改称した。その後も3つの戸長役場(小区)に分かれたまま諸村は何度か合併したものの、現在の区域による高滝村が誕生したのは明治22年の町村制施行によるものである。 昭和29年には加茂村となった。
明治9年から着手、明治15年完成した農業用水路(通称 高滝溝渠)や藤原式揚水機などを利用して新田開発を行うなど、明治期の高滝村には進取の気風と活気があふれていたようである。
中でも明治22年以降の高滝村となってからは、久保に隔離病舎(明治33年開設)を設け、また久保長光寺境内に綜種館という名称の図書館を設げろなど、地域の中心として近代化に向げて努力していったことは特記されよう。
「市原市将来像策定調査 市原市の今と昔」発行:昭和58年 市原市役所企画部企画課 より